小説 『ノロエステ鉄道』とブラジル・カンポグランデの沖縄県系人

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1章 大城カメの生涯 幾度か日本へ帰ってしまいたいと、いいえ、実をいえば毎日毎日そればかりを考えながら、いきながらえてきた七十年間。帰らなかったのではなく、帰れなかったにすぎない。・・・ -『ノロエステ鉄道』より1章 大城カメの生涯 幾度か日本へ帰ってしまいたいと、いいえ、実をいえば毎日毎日そればかりを考えながら、いきながらえてきた七十年間。帰らなかったのではなく、帰れなかったにすぎない。・・・ -『ノロエステ鉄道』より

01. 大城夫婦年表

年月日 カメ年齢 出来事
1889年3月3日 - - - 幸喜、大城武男の三男として、誕生
1891年7月5日 - - - カメ、大城親人の長女として、誕生
1908年2月 17歳 結婚( 幸喜19歳、カメ17歳)
- - - - - - 親族の勧めで、ブラジル移民を決め、移民会社と契約する
4月14日 - - - 鹿児島郵船の金澤丸( 神戸行) にて 那覇港 出発
4月28日 - - - 第一回ブラジル移民船・笠戸丸にて、 神戸港 出発
6月18日 - - - 笠戸丸 ブラジル・サントス港 到着
6月末 - - - サンパウロ移民収容所を経て、コーヒー大農園( フロレスタ耕地) に入植する
~12月 - - - 多くの耕地逃亡者がいるなか、大城幸喜一家( 構成家族含む) は契約満了まで働く
1909年1月頃 - - - フロレスタ耕地近郊の別のコーヒー大農園( カンポ・ネット耕地) で働く
3月頃 - - - 幸喜、高給の鉄道工夫の話を聞き、契約のため、サントスへ向かう
8月 19歳 幸喜、26日間かけて、アルゼンチン経由で、ラプラタ川を遡上し、マットグロッソ州のポルトエスペランサへ到着する
- - - - - - 幸喜、鉄道工事の現場監督として働く
1910年3月 - - - カメ、鉄道工事に加わり、炊事係兼工夫として働く
1911年頃 20歳 従兄弟がマラリアに罹患し、アルゼンチンに連れていき療養させるも死亡する
- - - - - - 7年間の鉄道工夫生活で2人の子を亡くし、また流産を繰り返す
1915年 24歳 鉄道工夫を辞め、カンポグランデ周辺で線路の枕木や薪を製造する請負事業を始める
- - - - - - 何百人の人夫、牛車を使うほど成功し、「大請負業者オオシロ」として有名になる
1923年 32歳 請負業で大きな損失を出し、ドウラドスへ転住し、農業を始める
1931年 40歳 コーヒー栽培やピンガ酒製造などで成功したが、大恐慌の影響で事業が頓挫する
- - - - - - 幸喜、大病に倒れるが、県人の助けにより、カンポグランデ市内の病院に入院する
- - - - - - カンポグランデで仲買業を始める
1938年 47歳 カンポグランデで雑貨店「日本商店」を始める
1942年8月20日 51歳 学生などの反日暴動で日本商店が焼かれ、全財産を失う
1945年8月以降 - - - 幸喜、勝ち組組織・臣道聯盟しんどうれんめいの活動に加わり、カンポグランデ支部のリーダーになる
- - - - - - 幸喜、眼病になり、カメと娘・芳子が裁縫などで家計を支える
- - - - - - 娘・芳子、過労等により死亡する
- - - - - - 再び、ドウラドスへ転居する
1967年12月20日 76歳 幸喜、長い闘病生活の後、亡くなる
1968年 77歳 カメ、移民60周年を記念し日本政府より勲六等瑞宝章が送られる
1978年5月18日 87歳 カメ、大城立裕氏からインタビューを受ける
1983年1月24日 92歳 カメ、亡くなる

02. 大城幸喜・大城カメの足跡

03. 晩年の大城カメ

大城夫婦の生活を大きく変えた出来事は、1942年の反日暴動で焼き打ちに合い、今まで苦労を重ねて築き上げてきた全財産を失ってしまった時でした。幸喜は「再起する気力もなくなった」とカメに漏らしたそうです。失意の中、日本の戦勝を最後の拠りどころとして、臣道聯盟へ傾倒したのかもしれません。幸喜は目を患い、カメと娘・芳子が裁縫で家計を支えましたが、しばらくして芳子が若くして亡くなりました。その後、大城夫婦は再びカンポグランデの南に位置するドウラドスでひっそり暮らすようになりました。大城夫婦は13 人の子どもを授かりましたが、生き残ったのは最後に生まれた義則、ただ一人でした。

大城夫婦は生活が苦しい中でも、沖縄の親族へ何度か送金を行い、また、カメは尋常小学校高等科を卒業していて文字を書くことができたため、たびたび手紙を送りました。そこには、自身の苦しい状況などは書かれておらず、沖縄にいる親戚の安否を心配する文章ばかりが記されていたそうです。沖縄在住の姪のハツさんは、カメの手紙に書かれていた短歌を覚えていました。

カメが80 代に受けたインタビューでは、「那覇港に見送りに来た父が涙を流している姿が今も忘れられない。」 と回想しています。晩年までブラジルの沖縄県人社会に貢献し、多くの県系人に慕われていたカメは、いつか沖縄へ帰るという夢をかなえぬまま、1983( 昭和58) 年1 月24 日、92 歳でその生涯を閉じました。

大城カメからの手紙に書かれていた短歌
出典:『豊見城市史 第4 巻 移民編』

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