小説 『ノロエステ鉄道』とブラジル・カンポグランデの沖縄県系人

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4章 ブラジルの沖縄県人団体の足跡 ノロエステ鉄道に乗ってはしりながら、あの果てしない草原に日本人の生きてきた足跡を思いうかべることにいたしましょう。-『ノロエステ鉄道』より4章 ブラジルの沖縄県人団体の足跡 ノロエステ鉄道に乗ってはしりながら、あの果てしない草原に日本人の生きてきた足跡を思いうかべることにいたしましょう。-『ノロエステ鉄道』より

01. 球陽協会と各地の沖縄県人会

戦前の沖縄県移民たちは、居住地単位で県人団体を作りました。最も早くに誕生したのは、1916(大正5)年に上原直松を発起人として設立されたサントス沖縄県人会(初代会長:与那嶺仁五郎)でした。サントスには耕地から逃亡した沖縄県人などが仕事の情報を得るため、あるいは郷里への送金のために集まっていました。
 さらに、1917年頃に宮城利三郎を中心にサントス沖縄県人会アンナディアス支部(初代会長:安仁屋長成あにやちょうせい)、サンパウロ市の沖縄県人会(初代会長:笠戸丸沖縄代表 城間真次郎)、1922年にカンポグランデ沖縄県人会(初代会長:知念亀)など、次々と各地に結成されていきました。同時に各地の日本人会も組織されていきました。

沖縄県移民への差別待遇

契約耕地からの逃亡や退耕は日系移民全体の問題でした。しかし、日本政府は耕主からの苦情を全て沖縄県人の性質や風俗によるものとし、1913年~ 16年、1919年~ 26年の二度に渡って、沖縄県での移民募集を禁止する措置をとりました。
 一回目の禁止措置が解除された要因は、1916年にブラジル移民組合が成立し、日本国内の移民排出熱が高まっていたことに加え、サントス沖縄県人会やカンポグランデ在住の沖縄県人有志らが禁止解除を陳情したこと、さらにブラジルでも移民の需要が高まっていたことにありました。
 しかし、移民が再開されると、他県人と沖縄県人とで借受けた渡航費の返済期限に差別があったことなどにより、契約違反や逃亡などが相次ぎました。そのため、1919年再び渡航禁止措置が執られました。

球陽協会の設立

1926(大正15)年2月、サンパウロ総領事赤松裕之は、ジュキア線沿線の沖縄県人らと会談し、沖縄県移民の禁止措置解除に尽力する代わりに、新来移民の指導体制を整えるようにと通達しました。同時に沖縄県においても移民の要望が高まっていたことから、外務省は1926年6月22 日に条件付きで、沖縄県移民の渡航禁止措置を解除することを決定しました。
 これを受けて、同年8月22日に、ブラジル全土を網羅する県人組織である球陽協会が発足しました。その設立総会では、各地から代表29名が集まり、支部数23、会員数2,147名で結成されました。名称は「沖縄県人会」という呼称は沖縄県人差別を助長するという理由で、「球陽協会」に決定されました。

02. 戦後の沖縄県人会の設立

戦後のブラジル日系社会は、「勝ち組」「負け組」騒動で混乱していました。しかし、1947年にブラジル赤十字社公認日本戦災救援会サンパウロ支部沖縄救援委員会が組織され、募金活動が開始されました。その後、1950年に沖縄文化救済協会と名称を改め、救援事業を継続しました。当時は公認団体の会長はブラジル人しか認められていなかったので、親日家のドットール・M・ミランダを会長に据え、実質的活動は城間善吉副会長が進めました。
 こうした社会情勢のなかで、沖縄県移民たちの気がかりは、郷里の親兄弟や、戦前に日本教育を受けさせるために郷里に帰した二世の安否でした。沖縄戦に巻き込まれ、学徒隊に動員された二世たちもいました。戦後の混乱のなかで、1日でも早く安否を確認し、ブラジルへ呼び寄せる方法を一世たちは模索していました。1948年頃からようやく「帰国二世」の入国が許可されるようになり、近親者の呼び寄せも始まりました。
 1951年、琉球政府から依頼を受けたJ・L・ティグナー博士が沖縄県移民の実態調査を行い、1952年にブラジルとボリビアが沖縄県人の移住と入植に最も良い条件であると報告しました。これを受けて、琉球政府による戦後の移住政策が開始されます。
 1953年2月22日、サンパウロ市のときわ食堂で全伯沖縄海外協会の創立総会が開かれました。初代会長に花城清安はなしろせいあん、副会長には森根亀吉もりねかめきち松田利信まつだとしのぶが選出され、沖縄文化救済協会が進めていた事業の継続と会員の勧誘、支部の増設などに力を注ぎました。
 1954年1月には、沖縄の戦後復興を支援するため、移民受入事業が正式に開始され、1955年第3回総会において在伯沖縄協会と名称を変更し、1960年に沖縄会館が建設されました。その後、1972年の沖縄の日本復帰に伴って在伯沖縄県人会と改称し、現在のブラジル沖縄県人会へと発展しました。

03. 協和婦人会の活動

1966年6月19日、沖縄協会サロンにおいて、サンパウロ市在住の沖縄県出身婦人で構成される協和婦人会が結成され、初代会長に屋比久美千子が就任しました。それまで裏方として県人会活動を支えてきた婦人たちが、自らの活動として生活改善や料理講習会、福祉施設への慰問など、幅広く活躍の場を広げていきました。
 第1 回笠戸丸移民325人のなかには、49人の女性が含まれていました。その後も家族移民や呼び寄せとして、多くの女性が海を渡りました。彼女らは男達に混ざって、生活の糧を得るために畑仕事や商売をはじめ、言葉の不自由な、頼る身内もいない異国の地で家事や出産、子育てとお互いを支えあって頑張ってきました。ようやく子育てから解放され、生活にゆとりが生まれると、親睦だけではなく、組織的な社会貢献を意識するようになりました。戦前・戦後を通して、彼女たちの活動はブラジル沖縄県人社会の発展の一役を担う重要なものでした。

04. 日系移民100周年を迎えて

第一回移民船笠戸丸でパレード(50周年事業)

1950年代に入ると、戦後の思想的対立や確執を払拭して、県民同志一丸となって、新移民の受入れや子弟教育に取り組んでいこうという気運が高まってきました。1958年に催された日系移民50周年記念事業では、第一回移民船笠戸丸の模型が各地を練り歩き、県系人の心を一つにする大きな契機となりました。

2008年の100周年記念式典

沖縄県人ブラジル移民100周年の記念祭典は、8月24日沖縄文化センターで盛大に執り行われました。
 前夜祭の祝賀パレードでは五穀豊穣を願うミルク(弥勒)行列や琉球国祭り太鼓が披露され、式典でも各界著名人の挨拶につづいて、「百年の流れ」をテーマにした舞台が上演され、琉球舞踊や歌三線で盛りあがりました。

出典:『写真で見るブラジル沖縄県人移民の歴史』

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