小説 『ノロエステ鉄道』とブラジル・カンポグランデの沖縄県系人

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小説 『ノロエステ鉄道』とブラジル・カンポグランデの沖縄県系人

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3章 カンポグランデの沖縄県系人 ブラジルへ来て暮らしや仕事で思いがけないことにぶつかるたびに、沖縄のことが思いだされたものです。-『ノロエステ鉄道』より3章 カンポグランデの沖縄県系人 ブラジルへ来て暮らしや仕事で思いがけないことにぶつかるたびに、沖縄のことが思いだされたものです。-『ノロエステ鉄道』より

01. カンポグランデ市の沿革

カンポグランデ市の歴史は、1877年にジョゼ・アントニオ・ペレイラ(José Antônio Pereira)とマノエル・ヴィエイラ・デ・ソウザ(ManoelVieira de Sousa)がサントアントニオ・デ・カンポグランデ(Santo Antônio de Campo Grande)と呼ばれる小さな集落を共同で建設したことに始まります。その集落は、1899年8月26日にマットグロッソ州政府により正式なカンポグランデ村に昇格しました。

さらに1914年8月にポルトエスペランサとトレスラゴアスを結ぶノロエステ鉄道が完成すると、その中央に位置するカンポグランデは、サンパウロ州とマットグロッソ州を繋ぐ物資の集積地、交通の要所として発達し、1918年にはカンポグランデ市となります。

ノロエステ鉄道が開通すると、鉄道工夫に参加した日系移民の中には、鉄道会社による雇用や、薪や枕木の請負業の開業などにより、カンポグランデに定住する人々や、工夫労働で得た資金を元手にして周辺農場を開拓する者も現れました。

1914年頃のカンポグランデの人口は、約1,800人でしたが、1922年には約5,600人、1932年には約13,000人と急増しています。その背景には、1921年にブラジル国陸軍第9師団司令部が移設され、国内的に重要な要所となったことがあげられます。それと同時に、日系人の人口は、1920年代には50世帯200人ほどでしたが、1927年には223世帯897人と大幅に増加し、そのほとんどが沖縄県移民でした。その要因には、郷里からの呼び寄せ移民の増大や、子どもの誕生による家族の拡大、周辺植民地の拡張に伴う他地域からの流入があったためと考えられています。さらに30年代には高層ビルの建設が始まり、かつては猛獣や野生生物が市街地を闊歩し、「44口径(44 pistola calibre)」と呼ばれていたカンポグランデは国内有数の大都市へと成長しました。

02. カンポグランデに入植した沖縄県移民

1914年にノロエステ鉄道工事が完了すると、鉄道工夫として工事に参加していた沖縄県移民の一部は、カンポグランデに定住しました。山城興昌やまきこうしょう、宮平市栄らがドン・アキノ街で野菜作りを始めたのが最初だといわれています。次に、大城蒲戸・ウト夫妻、大城次郎、外間源得、赤嶺徳、赤嶺亀らが共同で、郊外のシャクリニャに土地を購入し、蔬菜園を始めました。続いて、1915年に笠戸丸移民の赤嶺喜佐、外間宇志、赤嶺得らも共同で土地を購入し、米・トウモロコシ・野菜などを植付け、植民地づくりを始めました。

さらに、1917年に羽地村出身の仲尾権四郎なかおごんしろう源河幸助げんかこうすけ、仲尾善永らペルー転住者がマッタドセグレートに入植し、コーヒーやバナナ、サトウキビ栽培を始めました。また、1918年に大里村出身の新垣稲吉、與那嶺清光らによって開拓されたバンデーラ植民地は、市街地から近く、野菜作りの他に養豚・養鶏も行ったため、「カンポグランデの台所(Cozinha de campo grande)」と呼ばれ、発展しました。

また、沖縄県移民は子弟の教育にも尽力し、1918 年、カンポグランデ駅前にハンジャ日本語学校を創立しました。この学校は1923年に移転し、ポルトガル語も教えるカンポグランデ日本人学校と改称しました。その後、ブラジル国内でのナショナリズム高揚と日本人移民に対する差別に対応するため、1927年に州立ヴィスコンデデカイル小学校と改称して現在に至っています。

1930 年までに開拓されたカンポグランデ周辺植民地

1914年 シャクリニャ ※
1917年 マッタドセグレート ※
1918年 バンデーラ ※
1920年 インビルス― ※
1924年 マッタドプローザ ※
1925年 カスクード ※
1926年 マッタドセローラ
1927年 リンコン
1929年 ブラコン
※現在、シャクリニャ、マッタドセグレート、バンデーラ、インビルスー、マッタドプローザ、カスクードはカンポグランデ市に内包されています。

03. カンポグランデ県人組織の発展

カンポグランデ日本人会設立

1914年にカンポグランデに定着した山城興昌は旅館・ホテル業を開業しました。また邦人組織の必要性を説き、1916年に「カンポグランデ日本人会」を発足し、初代会長を務めます。戦時中の混乱で活動が休止した時期もありましたが、戦後再結成し、1957年に「連合日本人会」、1960年「日伯体育協会」、1962年「日伯文化体育協会」と名称を変更し、現在も活動しています。

カンポグランデ酒造組合

1919年にマッタドセグレートで仲尾権四郎らがサトウキビを原料とするピンガ(蒸留酒)工場を設立しました。遠く故郷から離れた移住地でお酒に癒される人も少なくはなく、また、ピンガの味が良かったため、ブラジル人の間でも良く売れるようになりました。その後、マッタドセグレートを中心に十数軒のピンガ酒造所が造られ、1932年に酒造組合(初代組合長:大城武盛おおしろたけもり)が設立されました。しかし、1939年にブラジル人による大規模工場が設立されたため、売上は下火となり、1940年に組合は解散しました。

カンポグランデ産業組合

1935年5月5日、大城武盛を初代理事長として産業組合が組織されました。152名の組合員が参加し、会計に仲尾権四郎が選出されました。設立当初は設備もなく、仲尾所有の倉庫や精米機、コーヒー精選機を使用していました。1941年、組合所有地に倉庫を移転し、1944年の大干ばつを乗り越え、1947年に精米機、コーヒー精選機などの設備も整えました。1954年には購買部を設置し、農具、農薬、肥料、種子などを取り扱い、現在まで続いています。

カンポグランデ沖縄県人会

戦前のカンポグランデ沖縄県人会は、知念亀を初代会長として、1922年に発足しました。設立の目的は、(1) 植民地の貧困者及び病人の救済、 (2) 小学校の設立、 (3) ブラジル人への対沖縄人友好感情の増進、
(4) 日本精神の涵養、 (5) 呼寄せ移民の促進などであり、子弟教育や各植民地における生活向上のために結束したものでした。その後、1926年に全国的な球陽協会が設立され、その支部組織として再結成されました。初代会長には城間嘉助が選任され、沖縄人への差別や呼寄移民ブローカーによる不正問題の解決に尽力しました。
 しかし、第二次世界大戦の勃発に伴って、日系人の団体活動が制限されるようになり、1941年12月に活動停止となりました。
 戦後、1953年に県人会が再開されました。

04. カンポグランデの発展に貢献した沖縄県出身者

カンポグランデ周辺に日系移民による植民地が開拓されていくと、多くの沖縄県人が呼び寄せ移民として集まり、市街地にはホテル業、運送業、洗濯業、理髪店、雑貨店などの都市的職業に従事する人も増えていきました。カンポグランデ周辺には、豊見城村や羽地村出身者が多く集まりました。同郷者を頼って渡航した移民は呼寄人の耕地で働いて資金を貯め、それぞれ独立していきました。

カンポグランデの発展に貢献した沖縄県出身者(出身地別)

兼城村(現糸満市)

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
大城次郎(27歳) 1912年
・神奈川丸
字波平 1914 年カンポグランデ郊外シャクリニャで、赤嶺亀らと共に蔬菜園経営。次郎の出身地である「波平」がハンジャ日本語学校の名前の由来となった。

東風平村(現八重瀬町)

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
山城興長(不明) 1931年 字富盛 山城興昌の呼び寄せ。在伯沖縄協会カンポグランデ支部長。コロニア文化面の指導者。
神谷光(31 歳) 1931年・
もんてびでお丸
字伊覇 叔父神谷壮吉の呼び寄せでカンポグランデ市に移住。野菜作りや日雇請負業などに従事。カンポグランデ中央日本人会のヴィスコンデデカイル小学校学事後援会2代目会長。
新垣清吉(22 歳) 1931年・
りおでじゃねろ丸
字東風平 父太郎の呼び寄せで渡伯。カンポグランデ郊外で野菜作りを始め、米作、コーヒー園、ピンガ(蒸留酒)製造工場、牧場経営も行った。

大里村(現南城市)

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
照屋堅喜(18 歳)
カマ(16 歳)
1908年・
笠戸丸
字古堅 ノロエステ鉄道工夫の仕事でカンポグランデに移住。妻・カマは鉄道工夫の現場で炊事係や洗濯などに従事。1916 年頃、カンポグランデで蔬菜園経営。
仲里太郎(19 歳) 1919年・
鎌倉丸
字稲嶺 カンポグランデで蔬菜栽培に従事。カンポグランデ郊外のジャラグア耕地で野菜作りをし、野菜店、雑貨店、肉店などを経営。
新垣稲吉(28 歳) 1912年・
神奈川丸
字稲嶺 ノロエステ鉄道工夫のあと、カンポグランデ市郊外のパンデーラ植民地で蔬菜栽培を始めた。1920 年には、セグレート植民地でコーヒー園を経営。
新垣稲長(16 歳) 1912年・
神奈川丸
字稲嶺 1918年にパンデイラ植民地に入植。
新垣稲牛(24 歳) 1916年 字稲嶺 1918年にパンデイラ植民地に入植。
與那嶺清光(22 歳) 1917年・
河内丸
字稲嶺 1918年にパンデイラ植民地に入植。
新垣俊光(34 歳) 1927年 字稲嶺 稲牛の呼び寄せで、カンポグランデ郊外で蔬菜園を経営した。琉球音楽研究会を組織し、三線の普及に努めた。

豊見城村(現豊見城市)

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
大城幸喜(19 歳)・カメ(17 歳) 1908年・
笠戸丸
字喜久嶺 1914 年、ノロエステ鉄道完成後は枕木や薪請負業、ドウラドス植民地開拓、商店経営など、戦前カンポグランデ日本人社会を牽引した。妻・カメは夫に伴い鉄道工夫の仕事にも従事。炊事係、洗濯、縫製業などで夫を支えた。
大城蒲戸(26 歳)・ウト(23 歳) 1908年・
笠戸丸
字喜久嶺 ノ1914 年カンポグランデ郊外シャクリニャで蔬菜園経営、洗濯業などに従事。妻・ウトは産婆として活躍し、多くの日本人女性を救った。
赤嶺喜佐(26 歳) 1908年・
笠戸丸
字真嘉部 1915 年郊外で農業経営、カンポグランデ日本人会、日本語学校設立に貢献した。
外間亀(19 歳)・ミト(15 歳) 1908年・
笠戸丸
字真嘉部 当初はピリグイで鉄道工夫に従事。その後、カンポグランデで測量技師の助手、薪や野菜の運搬業を始め、小規模農場を経営した。妻・ミトは洗濯業などで夫を支えた。
赤嶺徳(18 歳)・亀(12 歳) 1912年・
神奈川丸
字真嘉部 1914 年カンポグランデ郊外シャクリニャで、大城蒲戸らと共に蔬菜園経営。
外間源待(30 歳) 1912年・
神奈川丸
字真嘉部 1914 年カンポグランデ郊外シャクリニャで、大城蒲戸らと共に蔬菜園経営。
赤嶺徳助(12 歳) 1917年・
河内丸
字真嘉部 1919年頃にカンポグランデ市に移住し、語学を学んだ。薬局や呉服店を経験し、1932 年にはヴィスコンデデカイル小学校の校長となった。語学に長けていたので、日本人会や沖縄協会の外交部長として活躍した。
大城松助(26 歳) 1919年・
讃岐丸
字志茂田 契約移民として渡航し、翌年カンポグランデに移住。1923 年頃、薪売りで貯めた資金で土地を購入し、果樹園を始めた。源河吉春は娘婿。在伯沖縄協会カンポグランデ支部の相談役を務めた。

南風原村(現南風原町)

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
新垣美三郎(23 歳)・カメ(20 歳) 1908年・
笠戸丸
字津嘉山 鉄道工夫の後、カンポグランデで理髪店を開業。その後、洗濯屋に転業し、さらにパンデイラ耕地で小規模農園を経営。妻・カメは渡航時は金城カメ、洗濯業で夫を支えた。
城間鉄夫(14 歳) 1908年・
笠戸丸
字津嘉山 城間真次郎の従弟。通訳や卸売り商売をやって、1936 年に帰国。郷里で妻・キヨと結婚し、再渡航後、カンポグランデ市に落ち着いた。
儀保蒲太(14 歳) 1908年・
笠戸丸
字津嘉山 通称:イッパチ。1919 年にカンポグランデ市に移住し、賭博場「カーサ・バンブー」を開いた。1921 年頃に陸軍第9師団が移転してくると賭博場は繁盛し、将校たちと懇意になって、一躍名士となった。
金城義平(15 歳) 1908年・
笠戸丸
字津嘉山 イッパチの賭博場「カーサ・バンブー」の支配人。晩年はドウラドスに移り、生涯を終えた。

小禄村(現那覇市小禄)

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
長嶺顕弘(18 歳) 1927年・
らぷらた丸
字當間 仲尾道子の弟。セグレート植民地で酒造および農業技術を学び、精米所、コーヒー精選工場の主任として働いた。カンポグランデ酒造組合の専務、カンポグランデ産業組合の専務、カンポグランデ連合日本人会会長も務めた。

首里市赤田町(現那覇市首里赤田町)

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
山城興昌(23 歳) 1908年・
厳島丸
赤田町 ペルーからの転住者。1914 年5 月、カンポグランデのドン・アキノ街で蔬菜園を始めた。その後、雑貨商に転向し、ホテルを開業した。1920 年、カンポグランデ日本人会初代会長を務め、ヴィスコンデデカイル小学校の前身となるハンジャ日本語学校を創設。1925 年にセローラ植民地で農業に従事したが、学校に戻って教鞭をとった。

崎山村(現那覇市首里崎山町)

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
山城興規(不明) 1926年・
はわい丸
- - - 山城興昌の呼び寄せ。宜保三郎医院で歯科技術を習得し、診療所を開業した。

那覇市若狭

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
友寄英芳(29 歳) 1931年・
さんとす丸
- - - 市街地で飲食店を経営。郊外や農地に住む県人のための郵便局、あるいは集会所のような役割を担った。カンポグランデ沖縄県人会の書記長を歴任。カンポグランデの沖縄そばは、1954 年に経営する飲食店で提供したことが始まりといわれる

西原村(現西原町)

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
宮平亀千代(20 歳) 1927年・
らぷらた丸
字小波津 カンポグランデで薪販売、果物商、米作、飲食店、ビリヤード店など、次々と商売を変えながら資産を築き、最終的には雑貨屋を営業し、不動産経営で成功。

宜野湾村(現宜野湾市)

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
古波蔵厳(25 歳) 1908年・
笠戸丸
字普天間 鉄道会社の大工として雇われた。カンポグランデでは家具製作所を経営。1917 年にペードロで土地を買い、家具製作の傍ら漢方や鍼灸といった治療も行った。

中城村(現北中城村)

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
比嘉徳松(17 歳) 1908年・
笠戸丸
字渡口 アルゼンチンで大城幸喜と出会い、鉄道工夫の仕事で再移住。工事完了後、カンポグランデに定住し、測量技師の助手や行商人などの仕事に従事。

中城村(現中城村)

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
比嘉蒲助(17 歳) 1918年・
讃岐丸
字久場 1919 年頃、乗合馬車を経営。

美里村(現沖縄市)

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
島袋蒲(26 歳)・カマ(17 歳) 1908年・
笠戸丸
字比屋根 一度アルゼンチンへ転住した後、鉄道工夫の仕事で再移住。カンポグランデ市では野菜園の仕事に従事した。妻・カマは洗濯業で夫を支えた。
知念亀(16 歳) 1908年・
笠戸丸
字古謝 アルゼンチンから鉄道工夫として再移住。セグレート植民地で農業に従事。市内で1925年頃までホテル業を経営。1922 年、カンポグランデ沖縄県人会初代会長を務め、後にサンパウロ州チエテーに移住。その後帰郷。
知念松(21 歳) 1908年・
笠戸丸
字古謝 1914 年、カンポグランデでホテル業や運送業を経営。

北谷村(現北谷町)

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
宮平松(19 歳) 1908年・
笠戸丸
字野国 鉄道工夫後にアルゼンチンに転住したが、2 年後にカンポグランデに戻って野菜栽培に従事。その後、ジュキア線に転住し、日本人会役員なども務めた。

読谷村

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
池原次郎(17 歳) 1908年・
笠戸丸
字古堅 鉄道会社の荷物運搬の仕事を請け負い、後にセローラ植民地で大規模なコーヒー農園を経営した。

名護村(現名護市)

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
玉里幸一(31 歳)
玉里ムタ(27 歳)
1906年・厳島丸
1908年・笠戸丸
南風原村字與那嶺 ペルーからアルゼンチンに転住後、鉄道工夫の仕事のために、ブラジルへ再転住し、大城幸喜らと共に薪や枕木の切りだし請負業に従事。その後、セグレート植民地で養豚、コーヒー栽培に従事した。妻・ムタは、新垣マカトで入国。アルゼンチンで玉里幸一と結婚し、夫と共に再移住。カンポグランデでは洗濯業などで夫を支えた。
大城武盛(19 歳) 1919年・
博多丸
- - - 1918 年頃にトレスラゴアスからカンポグランデに移り、雑貨店、自動車部品販売代理店などを開業する一方で、コーヒー園、精製工場なども経営。カンポグランデ産業組合の初代会長も務めた。市内には大城武盛公園も設立された。
大城辰雄(20 歳) 1912年・
神奈川丸
- - - 武盛の弟。兄の呼寄せで移民し、当初は共同で雑貨店を経営。その後、リンコン植民地を開拓した。

羽地村(現名護市)

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
宮平市栄(18 歳)・マツ(不明) 1908年・
厳島丸
字真喜屋 ペルーからアルゼンチン経由で鉄道工夫に参加した。1914 年頃、カンポグランデで野菜作りを始めた。駅前にホテルを開業し、1982 年まで営業した。妻・マツは市栄がアルゼンチン在住中に呼寄せで移民した。鉄道工夫時代は炊事係に従事。
仲尾善永(29 歳) 1908年・
厳島丸
字真喜屋 ペルーからの転住者。1917 年、仲尾権四郎らセグレート植民地を開拓。コーヒーやバナナ、サトウキビなどの栽培を始めた。渡航記録では仲尾次善永とある。
仲尾権四郎(23 歳)
仲尾道子(不明)
1909年・満州丸
1926年
字真喜屋
小禄村當間
1911 年、ペルーからアルゼンチン経由で鉄道工事に参加。1914 年にカンポグランデに定住。1917 年にセグレート植民地でコーヒーやバナナ、サトウキビ栽培やピンガ酒製造を始めた。ブラジル政府の信頼を得て、郷里から多くの呼寄移民を入植させた。妻・道子は、権四郎が郷里に一時帰国した時に結婚し、ブラジルへ渡航。カンポグランデでは権四郎の事業を手伝った。
源河幸助(24 歳) 1909年・
満州丸
字真喜屋 ペルーからの転住者。1917 年、仲尾らとセグレート植民地を開拓。コーヒーやバナナ、サトウキビなどの栽培を始めた。
源河要吉(24 歳) 1910年・
香港丸
字真喜屋 ペルーからアルゼンチン経由で鉄道工夫として転住。1914 年には、兄・源河要助も呼び寄せて、1917 年、仲尾らとセグレート植民地を開拓。コーヒーやバナナ、サトウキビなどの栽培を始めた。
源河甚四郎(18 歳) 1917年 字真喜屋 源河要吉の呼寄。1917 年にカンポグランデに定着。ブラコン植民地の草分け。産業組合の創立幹部。
久場川清吉(22 歳) 1910年・
香港丸
字真喜屋 ペルーからの転住者。鉄道工夫のあと、仲尾らと共にセグレート植民地を開拓。後に農地の一部を仲程仙五郎に分けた。
新里源正(24 歳) 1926年・
まにら丸
字真喜屋 ペルーからの転住者。カタンツーバから同郷の仲尾らを頼って、セグレート植民地に入植。カンポグランデ産業組合専務理事を務めた。
與那嶺孝昌(29 歳) 1926年・
さんとす丸
字真喜屋 妻伯父の源河要吉を呼寄人としてセグレート植民地に入植した。その後、カンポグランデ市内でビリヤード店を開業。その資金でバナナ園を購入。バナナ園とビンガ工場を交換して成功を収めた。さらにアンデコ耕地で牧場経営を始め、戦後はガソリンスタンド経営、煉瓦工場を営んでいる。また沖縄海外協会の要職にも就いた。
仲尾徳英 1930年・
らぷらた丸
字真喜屋 仲尾権四郎の甥。呼寄移民としてセグレート植民地に入った。戦後カンポグランデ沖縄県人会の会長を務める。
宮里清七郎(34 歳) 1910年・
香港丸
字稲嶺 ペルーからアルゼンチンを経て鉄道工夫として転住。鉄道用の薪の請負業に従事。後に市内で薬局店店員をし、1927 年に雑貨店を開業した。
宮城重吉郎(29 歳) 1917年・
若狭丸
字川上 各地を転々として、アルゼンチン経由でカンポグランデに定着。ノロエステ鉄道敷設工夫も経験し、保健衛生業の職に就いた。市内に源河幸吉と共同で薬局を開業し、それが繁盛して雑貨店も経営するようになった。在伯沖縄協会及びカンポグランデ連合日本人会の相談役を担った

本部村(現本部町)

氏名(渡航時年齢) 渡航年・
移民船
出身字名 略歴
仲程仙五郎(18 歳) 1908年・
笠戸丸
字伊野波 カンポグランデで兵舎のペンキ塗り職人として働いた。セグレート植民地で久場川清吉の農地を入手し、コーヒーやバナナ栽培に従事した。
福地信久(17 歳) 1917年・
若狭丸
字崎本部 1917 年にジュキア線に入植したが、1920 年にカンポグランデに移住した。
城間嘉助(24 歳) 1913年・
静洋丸
字崎本部 ペルーからアルゼンチン経由でブラジルに転住。理髪業、製麺業を営む。アキダワーナ町、カンポグランデ市、リンス市の各地で日本人会長・理事を務め、1926 年の球陽協会設立当時はカンポグランデ支部長を務めた。

05. カンポグランデと沖縄県

南マットグロッソ州と沖縄県との姉妹都市提携

1979年8月、西銘順治知事がサンパウロを訪問した際に、野村丈吾ブラジル連邦共和国下院議員から、沖縄県とブラジル国の友好親善関係強化のために姉妹都市提携の提言がありました。それを受けて在伯沖縄県人会が中心となって提携先を検討した結果、1979年にマットグロッソ州から独立したばかりで、県出身者が多数活躍している南マットグロッソ州が候補として選ばれました。
 1986年4月22日に、南マットグロッソ州副知事ラーマス・テベットが来沖し、那覇市内において沖縄県と姉妹都市提携を結びました。
 南マットグロッソ州は、地理的にブラジル中西部に位置し、ボリビアとパラグアイの国境に隣接しており、州土面積は沖縄県の157倍に相当します。2006年時点で、州都カンポグランデ市に居住する日系人の数は約2万人と推定されており、その70%を沖縄県系人が占めていると言われています。

世界に広がる沖縄そば文化

ブラジルでは、SOBAといえば、沖縄そばのことを指すほどブラジル人の間で人気があり、2006年に沖縄そばが市の無形文化財に登録されました。中央市場に設置された巨大な沖縄そばのモニュメントは観光スポットになっています。2014年、沖縄県移民100周年を記念して「SOBAフェスティバル」が開催されるほど、沖縄そばはカンポグランデの食文化として定着しています。さらに2017年10月には郷土食として認定されました。

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